色づいたイチョウ並木をぼんやりと眺めながら歩けば気分も晴れる。なじみ深い散歩道も秋の終わりにはとりわけ空気がすがすがしく、朝風の中、胸いっぱいにする深呼吸がなんとも気持ちいい。
がさがさと黄色や茶の落ち葉を踏みしめて進む穏やかな足音。嗅ぎ慣れたギンナンの匂い。きっと地面に敷かれた落ち葉のどこかに実はちんまりと隠れているのだろう。ガキの頃は臭くて嫌いで仕方なかったイチョウの実の匂いも、年を重ねた今では季節らしいふくよかな香りに思えるのだから不思議なものだな、うっ。
くせっ。
くせっ!
私の鼻に強烈なギンナン臭が流れ込んだ。風が優しく運んできた物だが匂いは全く優しくない。
ぐは、くせえな!何だこれは!
風がどんどん運んでくる。これも、はいこれも。これもね、はいこれも嗅いで。ほらこれもだ、ほうれこれも嗅げ。
ううっ、風。止まってくれねえかな。臭いんだが。臭いんだが?
が、風に何を言ってものれんに腕押しである。私は風以外の要因を探すことにした。
つまり、この臭い匂いの根本となっている“実”の正体を特定するのだ。イチョウの実、ギンナンでないのは木を見るよりも明らかだ。
どこかに置いてあるはずだ、イチョウでない実が。落ち葉のどこかに、あるいは並木のどこかに。居場所を知る必要がある。そこから遠ざかるために。
もし分からずに歩いて犬の糞でも踏んづけたりしたら今日一日が面倒くさい。というか、今まさに臭い!
ここか?あそこか?
臭いのを我慢して鼻と目を凝らす。ふんふん、ふんふん。
ちいっ!ほんと、いらつくくらいくせえなっ!
ぼんやりしていた頭がすっかり臭さで覚醒した私の視線の先に、実があった。
というより、居た!!
「な、何してんですか!」
並木道の真ん中にしゃがんでいた。禿げじいさんが。尻丸出しで。犬ですらなく、人間だ。
大声で注意しながら近づいていくとどんどん臭くなる周囲の空気。新鮮は新鮮だが、生臭いのが非常に新鮮なのであって決して秋空のように爽やかなものではない。
どう見ても野糞の格好してるだろ。それも尻がこっちに向いている。遠目にも白くて張りのあるいい尻だな、いやいや、そんなことではなく!
そして。しゃがむ老人の尻の下に私は見た。
温かそうな、ほかほかの湯気を立てた、産みたての実を。
きれいな黄土色をしていた。
「すまん。歩いていたら催してしまってな。」
しわがれた明るい声で返事が返ってきた。まだ催しの最中らしく、こちらに向いた尻の真ん中で穴がくっぱあと開きっぱなしになっている。奥に新たな黄土色の実が見えている。
「それはいいですけど、道からそれて木の陰でしてくださいよ!」
ぶうぅぅぶぶぶぶぶうぅぅぅぅ!尻が力んで穴から屁が出るところを近くで思いきり見てしまった。なんてこった!
「そうしたかったんだが急すぎたんだよ。超特急便で下りてきちゃったら誰だってその場でするしかないだろ?」
全然悪びれてないなこの老いぼれは。どんな顔してるんだ?ほんとに臭いのを我慢して隣まで行って回り込むと、明るい声の持ち主はしゃがんだまま私を朗らかに見上げ、笑っていた。つぶらな瞳で、目尻にくしゃりと柔らかいシワを寄せて。
…ま、いいか。
老人の優しい笑顔があまりに屈託なくて、私は考えるより前にこの人を許そうと思っていた。健康そうな血色のよい顔。一見して人畜無害な男という感じがした。
ただ、笑顔は優しいが実の匂いは全く優しくない。悪い匂いではないのだが鼻が曲がりそうだ。
ふくよかすぎるのだ、この実。ごろんと落ち葉の上にある、老いた男の尻の実。
実と言うのが最も適している大きさ。ぷりんと長丸になって出てきた親父の尻の実は、腸の中でもこのままの形で無理なく収まっていたのだろう。
そんな尻の実がほんとうに臭い。湯気も臭いがそもそもの本体が相当臭いようだ。ギンナンの何倍もふくよかで、芳醇で、熟していて。きれいな黄土色の実は、まるで結実した果物がただぽとりと木から地面に落ちたかのようにそこにあった。
が、落としたのは老いた木ではなく、老いた尻だ。
ぶぶぶうぅぅぶぶぶうぅぅぶぶぶうぅぅぶぶぶうぅぅぅぅ!
長すぎるだろ、いらつくなあ。丸出しの尻の真ん中で開きっぱなしの穴が屁を吹き出すのをまた見せられた。
「おお、くせえな!」
それは私の台詞だ。野糞老人の明るい感想にいらつきながらも並木道の前後を確認する。どちらからも人は来ていないようだ。
「まだ実が出るぞ。尻から見えてるだろ?」
「ええ、お父さんの穴が開いて大きいのが見えてますよ…。
散歩中のほかの人が驚くといけませんから私が後ろに立ちますよ。目隠しになっててあげますから早く実を踏ん張って尻からぶりんと出してください。ほんとくせえなあ。」
老人は至って朗らかににたあっと歯を見せた。
「頼むよ、そうしてくれ。すぐ出すからな。」
そう言って禿げじいさんは、んんうぅぅんっ!と一生懸命に踏ん張り始めた。
「いや、そんなに踏ん張って血管ぶち切れたら困りますからゆっくりしていいですよ。私も一緒にしゃがんでてあげましょうかね。」
「ありがとう、尻が隠れて助かるよ。じゃ、味方も出来たしゆっくりさせてもらうか。」
屈託もないが遠慮もないなこの人は。呆れてしまうが、知り合って1分弱、私の心はじいさんの後ろの緊急事態に同情を寄せるくらいには軟化していた。尻から産み落とされた実の臭さにもどことなく親近感を覚えるようになってきた。
にしても臭い。同じ動物とは思えない強烈な生の臭み。
食べている物が違うのだろうか?じいさんに悪いとは思ったが、白くきれいな尻の下をのぞき込んで実を観察してみる。
まじまじと見れば見るほどきれいな色と形の実だ。汚いのは臭さだけ。いや、これほどむらがなく、きれいで健康的な大便だから文句なしに芳醇な臭みが出来上がるのかもしれない。生臭い実の匂いも、汚いわけではないような気がしてきた。
手を伸ばして、少し触ってみた。粘液は付いているがつるつるとしている大便の表面。温かい。湯気はまだほかほかで、まだほんと臭い。この湯気に色を付けていいのなら周りのイチョウよりも濃い真っ黄色にするべきだろう。
産みたてウンコを触った指もかなり臭いことになっただろうな。ウンコだからな。どうせ後で現場を片付けなければならないからいいのだが。恐る恐る、といっても内心妙に期待しながら、実を触った指を私は嗅いだ。
…ぐはっ!
んぐはっ!